鈴木広信 食堂すず広 店主

1966年ーー0歳。大阪府池田市で生まれる。

1990年ーー24歳。家業の精肉店で料理を始める。

1996年ーー30歳。小さな焼鳥店を開店。

2021年ーー55歳ーー立退きにより閉店。自然にほれ滋賀県に移住。

2023年ーー57歳。「食堂 すず広」を開店

すず広店主 鈴木広信の経歴 〜食と人生の軌跡〜

「お店を探す時って、味や値段や雰囲気も大切ですが、「いったいどんな人が料理つくってるの?」っていうところが気になりません?」という思いから、「地鶏と地米 食堂すず広」の店主である鈴木広信の歩みをご紹介します。柔道少年から精肉店、焼き鳥屋を経て琵琶湖畔の食堂に至るまで、すず広店主 鈴木広信の食へのこだわりと人生の転機をたどります。

幼少期・青年期
(1966-1988)
精肉店時代
(1988-1995)
焼き鳥屋時代
(1995-2020)
すず広時代
(2020-現在)

幼少期・青年期 (1966-1988)

大阪で生まれ、柔道との出会いから大学生活まで

1966年 大阪府池田市で誕生

1966年 大阪府池田市で生まれたらしい。おばあちゃんっ子だった。

(10歳)柔道との出会い

TV柔道アニメ「紅 三四郎」を観て地元の町道場に通い始める。粗暴で喧嘩ばかりしている孫をみかねた祖父母が、裏で誘導してくれていたのだろうと今は思う。キツイ稽古も、よき指導者のおかげで柔道の楽しさに目覚める。

(16-18歳)高校生活

大阪の公立高校入学。柔道部には入らず、グダグダした学生生活を送る。出席ぎりぎりで高校卒業。まだ仕事してもどうせダメな気がして、大学受験を担任に申し出るも、普段の態度の悪さから「お前に書く内申書などない」といわれひと悶着。他の先生がとりなしてくれて、何とか大阪のあまり勉強せずに入れる大学に入学。馬鹿なひねくれ問題児。

(18-20歳)大学柔道部への強制入部

「キャンパスライフをエンジョイしながら、シティーボーイを目指そう!」などと当時は夢想していたが、ガタイのすごい漢二人に、両腕を抱えられ部室に監禁。入部届にサインしたら帰ってええで。と言われ、そのまま柔道部に入部。

先輩には絶対服従。返事は「押忍(オス)」のみ。「髪の毛は好きにしたらええ」と言われていたにもかかわらず、「一回生、明日までに全員坊主(五厘刈)」の命令。私のシティーボーイズ化計画は入学早々あっけなく吹き飛んだ。噂には聞いたことのあった大学の凄まじい旧態依然とした規律に、即退部届を叩きつけ、啖呵を切って辞める。というような勇気も、強面のごつい先輩方の迫力に到底無理とあきらめ、《三か月、虚弱体質での退部計画》を立てる。病弱を装いながら休み休み稽古に励むふりをする。

不思議なことに、いつしか柔道部の規律にも稽古にも慣れて、徐々に柔道が楽しくなる。今の人にはなかなか通じないと思うが「嗚呼 花の応援団」っていう、(どおくまん著) 名作漫画があって、まさにその「花の応援団」を地で行く感じ。今の人にはわかるまい。((笑))

(20-21歳)柔道への本格的な取り組み

春に入学して、夏前には高校時代柔道部でバリバリやっていた同期たちに体力も近づき、徐々に柔道の楽しさがよみがえってきて、稽古にも真摯に取り組むようになる。しかしながら、高校三年間のブランクはいかんともしがたく、大学チャンピョンクラスのトップ柔道人との差を思い知らされるも、自分なりのベストを尽くし、出し切る大切さを学んだかもしれない。

(22歳)大学「自主卒業」

大学の卒業式。式典を終え、下級生柔道部員のいる開けたところで、涙ながらに訓辞を垂れた後、柔道部恒例の胴上げ。人生で後にも先にも胴上げなんて一度きり。いい思い出だな~~。解散の宣言をして、卒業証書を取りに行くと、なんか・・・。なぜか???私の卒業証書がない。!!さすがにあせりましたね。

後で大学に行って調べてみると、単位上のルールを分かっておらず、留年していることが判明。毎日練習があるせいで、クラブ員は一般学生より大学には真面目に通うことになる。自然と単位もスイスイ取得。3回生終了時点で、ゼミ以外の単位はすべて取得済み。だったはずが、ちゃんとルールを把握せず、4回生時は柔道連盟のごたごたで、毎年目標にしていた大会がなくなったこともあり、春には早々に引退。下宿も引き払って旅行に明け暮れており、大学の掲示板に張り出された私への警告文・呼び出し等には全く気付いていなかったのだった。携帯電話が普及するのはずっと後の事。

話戻って卒業式会場。皆、筒に入った卒業証書を片手に出てくるはずが、手ぶらで出てきた私に「あれ?先輩、卒業証書は?」と後輩。「う~~ん。。。。もう一年大学におるかもしれん」とつぶやいた途端、まだほぼ残っていた下級生全員が 「ええっ!!」っと息をすいこみ、半歩後ずさっっておののいている。その光景を見て、大学は自主卒業とすることにした。あの時の光景は今でも時々思い出して一人で照れ笑い。「わたくしの人生、恥ずかしき事の数々」のひとつ。私も立場上怖い先輩だったからね~。

(22歳)大阪のスーパーマーケットに入社

卒業証書はないものの、内定をもらっていた会社に無事入社。精肉部門に配属される。

精肉店時代 (1988-1995)

スーパーマーケットの精肉部門から家業の精肉店へ

(24歳)祖父の死を機に家業の精肉店へ

祖父が亡くなったのを期に、祖父母の家業であった精肉店に入る。

(26歳)若き店主の苦労

店主となるも、当時のいかつい精肉業界で、若い店主はなめられてよわった。髭でも生やして箔をつけようと髭を蓄えるようになり今に至る。

(20代後半)正直に商売する決意

平成がまだ始まって間もないころ、日本の精肉業界は、産地偽装のオンパレード。大手スーパーや百貨店、老舗の大型店など、きちんとウソ偽りなく営業されている店もあるにはあったが、オーストラリアやニュージーランド、アメリカからの輸入牛肉なども、米沢牛だとか神戸牛だとか称して堂々と売られていた。

私もプロのはしくれだから、肉を見れば国産でないことくらいわかる。当時は一切れ食べればアメリカ、オーストラリア、ニュージーランド産はすべて言い当てることができた。産地偽装が問題視されて規制がかかるのはもっともっと後。「バレないんだから、あんたもやればいいのに」なんて言われもしたけど、どうしてもウソをついて商売する気にはなれなかった。お祖母ちゃん子だし(笑)

その頃ようやくメジャーになってきた「DNA」ってものが、もし読み取れる機械が手に入ればウソ牛肉を全部暴いてやるのに~~~!なんて思ってた。

(29歳)総菜部門への転身と料理人人生の始まり

そんな逆風の精肉業界で、自店で肉の売り上げを伸ばすのは至難の業と半ばあきらめ、総菜部門に力を集中して、できる範囲の限界でずっと頑張ってみた。コロッケ餃子にハンバーグ、揚げ物煮物に炒め物、焼き豚やベーコン、サラダ、漬物。なんせ町の小さな精肉店。作るのは私一人。教えてくれる先輩もツテもユーチューブ動画もない。

いろいろ限界かな~と思いつつの仕事も、それが今ある私の料理人人生のスタート。もがき苦しんでた記憶しかない。休みは正月3日・盆2日の年休5日。もともと食いしん坊ではあったのだが、今までの何十倍と試食をし、食べ歩き、今まで遠ざけていたお酒もたしなむ様に。マリアージュなんて言葉はまだなかったけど、お酒と合うもの、ご飯に合うものはこれほど違うのかと感心してみたり。お酒を飲まなかったのでよくわかってなかった。

焼き鳥屋時代 (1995-2020)

「焼き鳥たぬき屋」の開店から「燗」への転身まで

(29歳)焼き鳥屋への転身を決意

精肉店もそろそろ限界か。と思っていたところに、友人が相次いで二人も焼き鳥屋を目指して修行を始めた。「お前も焼き鳥屋どうや?」の誘いに、「いっちょ焼き鳥屋に転身するか!」と一念発起。店をたたみ、金をかき集め、改装期間の3か月だけ知り合いの店で修行させてもらう。

(30歳)「焼き鳥 たぬき屋」開店

飲食業は素人だったが、もともとある程度料理はできたので、修行期間三か月だけという短期間で精肉店を改装し、何とか開店にこぎ着けた。飲食業界のことを知らなさ過ぎたので、怖いもの知らずの一か八かの船出。開店時、手持ち資金はほぼ0円からの綱渡り。

開店当初はずっと「や、やばい」と焦りまくり。徐々にお客さんがついてくれてホット一息ついたのが丸二年たった頃だったかな。

焼き鳥屋を始めてすぐ「焼き鳥屋って串に打たなあかん分、仕込みに時間がかかる。」ってことに気づいた。もちろん、手の込んだ料理で寝る間も惜しんで仕込みに励む料理人もたくさん知っているが、焼き鳥屋を選んだ時点で、自動的に「仕込み時間過多」の飲食業にならざるを得ないのだ。飲食業を知らなさ過ぎて、目の前にあった焼き鳥屋の道を選んでしまったことに後悔したものだ。

(30代前半)日本酒との運命的な出会い

店をオープンしてから、本格的にお酒を勉強しようと、利き酒会などにも積極的に参加。その中のひとつに「上原 浩を囲む会」って利き酒会があり、日本酒史上、最も日本酒に詳しいと思われる上原先生に一発で心酔。

この上原 浩って先生は、著書に「酒は純米、燗ならなお良し」とサインを入れるほど、純米酒と燗酒にこだわった方で、著書も多数。その会以来、私は「純米」「燗酒」を飲み続けているのだが、58歳の今に至るまで30年近く、一度も二日酔いをしていない。お酒好きの方はぜひ試してみて。どんな酒より次の日が楽だよ。(個人の感想です)

アルコールってのは、体内では体温と同じになってからしか吸収されないらしく、温めて飲むと素早く吸収されるわけです。ってことは、飲みすぎが減るし、冷酒を5杯飲む人は燗酒なら4杯ですむ。温かい分胃腸や身体にも負担が少ない。その分回復を早めてくれるわけです。

それから「純米」にこだわるのは、私はアル添酒を飲むと頭痛がひどいのだ。時には二日酔いが三日ほど続く時もあった。それまでは酒類全般が合っていないんだろうと考えていたのだが、飲むにつけ勉強するにつけ、アル添酒が私の頭痛の要因であることが分かった。(その他ジャンキーな酒も含むが)

当時、第一次日本酒ブームで冷酒至上主義がもてはやされていたので、「??」ながらも半信半疑で純米・燗酒を飲みだすと、やっぱり冷酒の方が吞みやすい。でも、三日ほど我慢して燗酒を飲んでいると、だんだん日本酒の深みがわかりだした。コーヒーでも水でも、冷たすぎると味なんてわからなくなるもんね。飲みやすくはあるけれど。お酒は燗につけた方が、くっきりとその酒のポテンシャルが浮かび上がります。うまさも倍増。

(30代中盤)体調不良と死の恐怖

「焼き鳥たぬき屋」の経営がやや落ち着いてきた頃、胃腸の調子が悪くなり、ずっと何時間かに一度くらい胃のあたりに激痛が走る。10分以上動けないなんてことが続いた。胃カメラを飲んだり、お医者さんを変えてみたりしても、原因もわからず、良くなるわけでもなく・・・。3か月ほどは苦しんだろうか。

ある夜、今までの激痛の何倍もの激激痛になり大きな救急病院へ。いろいろ検査してもらって、「腸炎」の診断を受け、点滴をしてもらうと少し楽になった。その夜は一旦帰ったのだが、その日の明け方にかけて、またさっきの激痛がだんだんひどくなる。冷や汗で枕もぐっしょり。たまりかね、又もやタクシーでその救急病院になだれ込んだ。

即入院となったのだが、依然、腸炎の診断以上のものもなく、原因不明。薄れていく意識を何とか現世にとどめつつ、病院のベッドで点滴の管に邪魔されながら遺書をしたためた。もうほんと死ぬって思ったもんね。その遺書は何年か手元に置いていたのだが、まあ、へれへら笑いながらまだ生き永らえてるうちは、こっぱずかしいので捨てちゃったが、ほろ苦い思い出。

(30代中盤)食の大切さに目覚め無化調に

その入院では点滴以外にほとんど何の処置もなく、絶食で徐々に回復。10日ほどで点滴も外れ、初めて口にしたお粥の美味かったこと。絶食で思い知ったのは、「食べ物って心の栄養でもあるんだ!」

お粥をはじめて口に入れた時の幸福感。絶食中は満たされない、食による多幸感の欠如からくるストレスのような、物足りないというか、報われない気持ちというか。。。。。食に携わるものにとって、改めて使命感のようなものがむくむくと大きくなった。食ってこんなに大事なんや!食ってこんなに人に幸せにするんや!俺の料理でもっともっと人を幸せにできるやん!

で、入院に至った「腸炎」なのだが、病院では原因不明。なら自分なりに過去を振り返りつつ原因の犯人探しをすることに。いろいろ検証し、人体実験も自分でこなし、導き出した結論のひとつが「化学調味料」だった。その他添加物で苦手なものもあるし、把握できていないものもまだまだあると思うのだが、どうやら化学調味料が私の体には合っていないようだ。私自身、今は化学調味料アレルギーと称している。

もう自宅ではジャンキーなものを食べることは一切ないが、今でも外食が重なるとどうしても化学調味料過多になり、胃腸が痛くなったり、てきめん下痢になるし、舌や口の中にできものができる。食がテーマの読み物中恐縮だが、ひどい時には食事が終わるか終わらないかのうちにトイレでリバースすることもある。よ~くよく考えると昔からそうだった。スナック菓子、ハンバーガー、チェーン居酒屋等等々。体調のせいにしたり、食べすぎ?とおもってみたり。

そういった思いもあって、以来「無化調」で営業を続けている。味見できるものしか出したくないし、第一お客さんに喜んでもらうのが料理人の喜びなのだ。無意識に遠ざけて生きてきたけど、化学調味料、「やはりお前だったか!」

(35歳)二号店「焼き鳥 狸家」開店

ようよう二号店開店に漕ぎつけた35歳。人って(私は)5年同じことを続けると、モチベーションを維持するのが難しくなるのよね。一号店開店から5年がたった時。規模が大きくなれば効率も上げられるしスタッフにも休みを多くあげられるし、って考えてた。

失われた30年の真っ只中、当店だけは売り上げが鰻登り!なんてことは全くなく、低位安定って感じでなんとか経営。

(44歳)二号店の譲渡と「燗」への改名

二号店に入って9年たった時、右腕として頑張ってくれていたスタッフが結婚するのを機に店を譲る。年齢的にも二店舗分の面倒を見続ける体力の減退。もともと職人気質で、経営や人を動かす力は皆無。踏ん張って9年もやってしまったし、モチベーションの維持も難しいしという理由もあった。今では私のやっていた時より盛り上げてお店をやってくれており、嬉しい限り。屋号も読みは変えずに「TANUKI」でやってくれてる。

少し肩の荷が下りて気楽になった。が、そんな時、心酔していた上原先生が鬼籍に入られたことを知る。忙しさにかまけ、2・3年知らずにずに過ごしてきたことを恥じ、屋号を「燗」(かん)に改め、無化調の料理と、純米・燗酒の専門店に。

(44-53歳)「燗」での日々と立ち退き

創業店に戻って、営業中のアルバイト以外は私一人だったから、人件費や固定費に追われていた今までよりずっと気楽ではあった。「無化調」とか「純米・燗酒」といった自分の信念を押し付ける商売は、本来の王道ではない。それで大きく儲かるわけもないと覚悟は決めていた。しかしながらなんとか食っていけてたし、このまま体の続く限りここで商売を続けて死ねたら本望。くらいに思っていたところに『立ち退き』の話。ええええ~~~!まじか!

30代はそれでいけたし、仕事量は自慢でもあったが、一日16時間ほど仕事をしても、毎日飲みに行けるほど元気だった。(営業時間18時~26時)しかしながら、まだまだ若いと豪語しつつも50代になるとさすがにしんどくなって、営業時間も24時までに短縮。いや~時短ってホント大切 よね~。と、またまた遅まきながら気付く。

飲食店って、初期費用が沢山かかる分、そう簡単にあっちへこっちへと行けない商売である。私も焼き鳥屋を始めて25年間、店という場所に縛られて生きてきた。よくお客さんの話に出る「出張」とか「出庫」で、いろんな土地に行って仕事できるのが凄くうらやましく思えたものだ。立ち退きはショックだが、「おお!これで自由にどこへでも行けるぜ!」

すず広時代 (2020-現在)

コロナ禍、スペイン計画の挫折から琵琶湖畔の食堂へ

(53歳)スペイン移住計画と挫折

「おお!これで自由にどこへでも行けるぜ!」と妻と話し合った結果、「スペイン移住計画」が持ち上がる。二人で旅行して気に入り、過去4度も旅行した土地だ。食いものもうまいし酒も美味い。カラッとした気候は日本にはない清々しさだ。飲食の文化も深いし飲食店も多いから何とか雇われながらチャンスを!向こうで「知識」と「箔」をつけ店を出すのもいいし、帰国してスペインバルを出店することもできる。なんたって自由なのだ!

しかもしかも、なんとそんなタイミングでアルバイトに募集してきた青年は、スペイン語圏出身の留学生。「これも神のめぐりあわせか?」と勘繰りたくなるような出会いだった。20何年の歴代のバイトで、中国人・韓国人とは仕事をしたことはあったが、まさにこのタイミングで、エスパニョールを話せるアルバイトが決まるとは~~~~!しかも、今でもずっと付き合いができるほどのナイスガイ。当店のバイトもこなしつつ、妻と私にスペイン語の家庭教師・猛特訓をしてくれた。

店をやりつつ、立ち退きの裁判を進めつつ、スペイン語の猛特訓。睡眠不足ながらも、不安や苛立ち以上に、夢や希望に満ち溢れるってこういうことなのかもしれないと楽しかった。向こうで住む場所はバルセロナ近郊。家賃は7万円以下。二人が寝れるベッドさえあればなんとかなるやろ!なんて。そんな物件探しをしているところに・・・・

立ち退きの裁判が終わった数日後に、なんとコロナで世界的なロックダウン。スペイン移住計画は、あっけなくノックダウン。

(53-54歳)フードトラック計画と挫折

その後国内に目を向け、「フードトラック」でなら全国をまたにかけ旅をしながらフーテンの寅さんみたいに商売ができるなー。ってことで、、夏は北海道、冬は沖縄なんて行きながら大好きな飲食業で旅ができるぜ!よし!これだ!

気合を入れなおし、出店場所確保のノウハウやら、トラックや改造費の見積もりやら、販売商品の検討・選定。関東関西・日本全国のフードトラックの現状や販売実績etc。「焼き鳥 燗」が閉店の時には、お世話になったお客様に「今後はフードトラックで勝負します」なんて葉書まで出した。が、。。。。

コロナ過を少し楽観しすぎていたようで、あてにしていたイベントは全く行われなくなり、国内消費は落ちるところまで落ち、一千万円近くもかかるトラックでの商売はとうてい無理な状況が続く。何か月も料理の試食をしつつ様子を見ていたが一向に先が見えず、これまたノックダウン。ありゃりゃ~~~。25年続けた店も、裁判が終わって3か月後に閉店。

(54歳)福島移住計画と挫折

そんな折耳にしたのが「福島に移住したら助成金が出るらしい」という噂。関西にいながら、福島県の大地震・津波・原発事故に心を痛めていながら、何もできずにいたことがエネルギーとなり、助成金が入るなら、その金を踏み台にして、いっちょう福島を盛り上げるべく商売を!居酒屋出店を視野に入れつつ、ここならフードトラックでの活躍も可能では?と考えた。

私たちが訪れてまず思ったのは、今の福島県人には笑顔が少ない、っとことだった。そんな土地で、食いもんや酒でちょっとでも笑顔や冗談で笑ったりするお手伝いができれば。二度、福島に行って現状把握に努める。

人々の意見を聞いたり、心情をおもんばかったりするうちに少しわかったのは、政府から福島に落ちているはずの金は、県民のところへは全く不十分にしか届かず、中間で動いている業者だけがぶくぶく太っているって現状。いや、これはよく調べていないし、なんら証拠があるわけでもないのだが、県民の感情はおおむねそういったものだったと思う。

不動産屋さんも巡って、フードトラックを停めて仕込みもできる原発周辺での移住先物件探しまでしたのだが、国の抱える大いなる矛盾に対抗する術もなく、助成金は全く下りてくる気配はないし、第一、思ったほどコロナ過は早くは収束しなかった。時間だけが過ぎていき、手持ちの資金はどんどんけずられていくいっぽうで、福島移住計画は資金不足に陥り頓挫することになった。

(54-55歳)小鮎釣りとの出会い

釣り好きの寿司屋のマスターに誘われ、滋賀県に小鮎釣りに出掛けた。5月か6月のことだったと思う。小鮎とは、海に降りず琵琶湖に陸封された、小型のまま大きくならないアユのこと。普通海から河川を遡上する小型のアユは稚鮎という。

私は釣りはほぼ素人。その日丁寧に教えを受けながら懸命に竿を振るも一匹も釣れず。なんとその釣りマスターである寿司屋マスターも全く釣れず。周りでは楽しそうに小鮎を釣り上げる家族連れやらおっちゃんやら。なんたることか!調査・検討の結果、エサが悪いと結論付け、次回リベンジを誓う。

現地調査から、エサを市販の小鮎釣りのエサだけだったものから、いろいろ付けたし、満を持してリベンジ釣行。あらかじめグーグルマップで目星をつけた琵琶湖流入河川の釣りポイントに入り、熟考を重ねたエサをつけ恐る恐る第一投。周りには誰も釣り客はいない。釣れない。第二投。「あかん。ここに小鮎おらんぞ!道理でだれも釣ってないやん! 次に移動するとしたらどこへ行けばいいのやら。とほほ。」なんて思いつつ第三投目。ビクビクビク!つ、つ、釣れた~~~~~!

小鮎が見事に二匹もかかってくれた。もう、ほんと嬉しくて小躍りするくらいとはあの時のことだろうか。大声で妻や連れに何やら叫んだことを覚えている。いや~人生初小鮎よ。小鮎!いや~努力は報われる。その後、夫婦で300匹と大漁の釣行であった。

(55歳)秘密基地計画の頓挫と琵琶湖の物件購入

コロナ過のわが町の小さな繁華街は、どの店も時短要請で閉まっているため、深夜にしか飲みに行けないマスター連中は、閉店後誰かの店に集まって飲むことが恒例になっていた。我らの小鮎釣りの大漁のうわさが、瞬く間に広がったのは当然の結果だろう。琵琶湖の湖西地域と言われる河川に、そんな地元マスター連中やその取り巻きたちが通うようになったのはこれも自然な成り行きだろう。みな体力を持て余していた。

そんな釣りに興じるのはほとんど料理人でもあるので、釣った魚は自分でさばける。店で土産話付きで出せば、お客さんも喜んでくれる。おまけに釣れ過ぎたら友達のマスターに配って喜ばれるし、冷凍だって利くのだ。

その当時のマスター連中の釣行と言えば、夜に閉店後、2~3時間休憩の後、朝3時か4時前には出発。2時間弱の車異動で、夜明けとともに釣りをはじめ、10時頃には釣りを切り上げ帰阪。小鮎を処理後、仮眠や休憩を経てまたその日の営業。というようなハードなものであった。

そこで、いつものような深夜の飲み会で年長のマスターが切り出した。その日は10人ほどはいたろうか。「あのな、この小鮎釣り。こんなに楽しい釣りってめったにないぞ。そいでな、俺思ったんやけど、あの辺にベースキャンプみたいなもんが あればむちゃくちゃ楽やと思わんか?」一同「うんうん」「コンビニに行かんでもトイレがあって」一同「うんうんうん!」「ちょっと疲れたら仮眠もできて」一同「うんうんうんうん!!」「鮎だって洗ったり下処理までできて」一同「うんうんうんうんうん!!!」「休みの日を挟んだら泊りがけで釣り出来るやん」一同「うんうんうんうんうんうん!!!!」「冷蔵庫一台置いとけば、泊りがけで宴会だってし放題!」一同「うんうんうんうんうんうんうんうん!!!!!」

「そやろ!そこでひとつ提案なんやけどな。ココにおる奴、みんな100万円づつ出してみ。そしたら、中古の小さい住宅くらい買えるんちゃう か?そんな綺麗なもんとか、快適空間を求めるんちゃうからもっと安く買えるかもしれん。」一同「おおおおおおお~~~~~!!!!」

もうみんな、時短で体力は余ってるし飲んだ勢い。「俺はだすぞ~~100万」「ほんなら俺も乗った100万」「ええ~~~~まじか!ならしゃ~ない。俺も漢や。乗ったで100万」てな流れで、私も一口乗ることにし、全部で6人。一口100万で600万。金を出して、大人の秘密基地計画は大いなる夢を背負って大海原に漕ぎ出すこととなった。

数日後、会議の席に(飲み会の席)動議をかける。「次の〇曜日、内見が決まったけど、朝10時に設定したから、釣りも行けるし、物件もみんなで見た方がええやろうから、出来るだけみんなで行こうと思うけど、都合の悪いやつおる?」一同「。。。。。。。。」私「みんなOKってこと?」年長者「いや。。。あのな。。。。言い出しっぺの俺が言うのもなんやけどな。。。」悪い予感しかない。「あんときの勢いっていうか、なあ。ほれ、なんというかだいぶ飲んでたしな。みんな。」私「おえおえおえ」別の出資人「鈴木君、よく、ほら、なんて言うか、なあ、よく聞くやろ。友達同士で別荘買うてもめる話。なあ。」

不動産屋さんとの待ち合わせは10時。5時には現地入りし、小鮎釣り。嫁と二人きりだ。楽しいんだな~これが。15分前に切り上げて、急いで待ち合わせの物件前へ。本気でその物件を見るつもりではなく、体よくお断りをする予定なので、下半身は川の水でびちょびちょのまま。で、その物件。薄汚れてはいるが、寄棟造り、草ぶき屋根のかわいらしいお家。なんか、ええやん。電気が止まっているせいで暗い中、でいろいろ見せてもらったのだが、3年ほど空き家だったにしては程度がいい感じ。住めそうじゃん。ええやんええやん。おまけに高台にあって見晴らしは最高。敷地から見る遥か琵琶湖を挟んで向こう岸の伊吹山が綺麗。おまけにちょびっと覗く琵琶湖の湖面がキラキラ光ってうつくすぃ~~!

もちろん価格も当初の予算内。私「ここ、おれ、買うわ」と妻に言うと妻「ぐお~~~~!まじか!!」その日帰って家族会議の末、ほんとに購入を決定。

(56歳)DIYと新たな出発への決意

いざ購入してみると手直しのいるところがちらほら。私一人住み込みで手直しDIY。やりだすと、あ、ここもか!あそこもあかんやん!などなど。当初は駅前で賃貸物件を探して、焼き鳥屋をやりながらフードトラックでの転戦なども視野に入れていたのだが、想定の何倍もの費用がかさみ、改装DIYで資金が底をつく。

私は飲食一筋。他に何の取り柄も無いしやりたいことも思いつかない。資格だってない。んじゃあ、この家を使って商売するしかないな~~~。なんとか融資をおろして、店の改装。その間もDIYは続く。金も体力も底をついてきた頃、なんとかなんとか開店に漕ぎ着ける。

(56-58歳)「地鶏と地米 食堂すず広」誕生と現在

苦節一年半。辛く長かったDIYも一旦区切りをつけ、食堂をオープン。2023年3月19日。「地鶏と地米 食堂すず広」開店。でも、田舎の奥まったところにあるお店なんて誰も知らない。誰も来ない。そら、お客さん来んわな。こんな所じゃ。と、不慣れなネットを使って認知度を上げようと頑張ってはいたが、開店休業の状態が続く。

売上低調ながら、土日祝はぼちぼち忙しくなり、なんとか食いつないで今に至る。バタバタとしながらも、好きな仕事をやらせてもらってる妻に感謝。2025(令和7年)1月。大阪の喧騒から離れ、田舎のほんわかした空気の中で、たまに柔道もやりながら心地よく過ごしております。